2019.9.7−9.27■THE EMBODIED MIND

THE EMBODIED MIND
 
心は本来、身体化されている。
思考はたいてい無意識のものである。
 
2019.9/7土 - 9/29日(月火水 休廊)
12:00-19:00(最終日17:00終了)
 
ギャラリートーク
2019.9/7土 17:00-18:30 ※予約不要
 


黒瀬 剋 Kurose Masaru
 
www.from-to.jp/art
自作品のコピー画に自ら加筆描画を施しイメージ変換を試みた一群の「継続絵画」をさらに合体し、新たな絵画を制作するプロセスは、私の絵画イメージの発生現場を確認する行為でもある。
結果そこから生まれるイメージが独自のものになればこれ以上言う事はない。
 

長尾 圭 Nagao Kei
 
www.keinagao.blogspot.com
落ち着かない視線、そこから紡がれる形は定まることはない。
筆跡も辿々しくまたは途切れたり。色彩はいつのまにか心許ない色合いになっている。
そんな中途半端で優柔不断なものを潔く描きたい。
 

山岡敏明 Yamaoka Toshiaki
 
www.gutic.com
ある種の示唆的な構造を孕んだフォルムの総体を「GUTIC(グチック)」と仮称し、現実と地続きの世界に 「あったかもしれない可能性」としてのカタチを偏執的に探り続ける。
 

 20年以上に渡り絵画を制作している三人の作家に出品を依頼し、展示予定の作品画像が送られてきた。そこに描かれている彼らの世界は緩やかに分解され、散乱する部位が画面を構成している。肉体、風景、時間が断片化され、我々の基本的垂直性を剥奪している。三人の図像は「語ること」をせず、「示すこと」に徹している。そして、「示すこと」の独自の力、固有の論理を持って制作している。肉体部位の突出が視覚の判断を揺るがし(山岡)、地平の喪失が空間の解釈を留保させ(長尾)、解体された時間性が相互に入り混じり、地と図の侵食作用を露わにする(黒瀬)。もちろん、これら方法は現代の絵画によく見られる手法かもしれない。しかし、意味がずらされ、解釈が不能になっても、その絵画の前に立ち続ける者には何かを呈示する。それは我々の肉中深くに潜んでいる意識、語るのではなく、示すことによって立ち現われる空間であり、絵画が無言の論理を駆使して作った世界と言える。その論理としての感覚作用は言語、概念といった他の手段と肩を並べる人間固有の器官であり、「肉体」「風景」「時間」等を自由自在に操り、衝突、転倒、逆転、結合などを描くことによって、宇宙が数式によって表象され、制作されてゆくときに、言わば「無重力的絵画」を制作し続ける彼らの営為も支持されねばならない。「示されうるものは、語られえない」(ウィトゲンシュタイン)。「示すこと」と「語ること」を明確に峻別する事が彼らにとって核心的なことであるに違いない。
 
「古い壁の上のしみのなかで形をとるのが見えるものを生徒たちに自分の絵に写し取らせるレオナルドの教え」についてのブルトンの説明を引用するエルンスト(「視覚的無意識 ロザリンド・クラウス」谷川渥、小西信之訳)
2kw gallery