■2020.4.4-4.26『ゲシュタルトの祈り』城 愛音/辻元 美穂/薬師川 千春

『ゲシュタルトの祈り』
城愛音/辻元美穂/薬師川千晴
 



会期2020年4月4日(土)ー4月26日(日)
12:00−19:00(最終日17:00まで)
※休廊日・月・火・水
 
※新型コロナウィルス感染症の感染予防、拡散防止のため、4/4に予定しておりましたギャラリートークは中止させていただきます。
 


城愛音/AineJo
 
1994年生まれ
2019年 京都市立芸術大学大学院美術研究科(修士課程)絵画専攻油画 修了
 
2020年 VOCA2020/東京
2017年 第32回ホルベイン・スカラシップ奨学生
 
「私」とは暗がりの中を彷徨う不確かなもので、常に「誰か」という鏡を通し手探りで確かめる。
 
絵を描くこと。それはまるで「誰か」に向き合うこと。そして「私」自身と向き合うことと、どこか似ている。
掴めたと思えば、向こうから振り落とさたり。こちらから裏切ったり。
到達点は不確かで、じっくりと時間をかけて互いの対話を繰り返す。
 
私の作品に登場するイメージは、どれも親しい身近な人物。主に家族や友人だ。題材には複雑な理由等は何もなく、人物の表情、話し方、それら全てが絵の色やイメージの要素となっている。相手に対する好きなしぐさも、それは私によるとてもパーソナルな視点だ。 また対象への愛情や執着といった思いも、それらすべてが絵の要素となり色彩や筆致に現れる。それも「身近な人物」という鏡に映った今の「私」そのものなのではないだろうか。こうして描かれる人間はやはりどこか自身に似ている。身近な人を描くことは作品へ私自身を投影し、こうして生まれる作品は「遠い自画像」となる。
 
また、疾走、焦燥、軽やかさを感じながら一枚の絵に溶け合わせるよう、ストロークを加えてゆく。画面内は一瞬の光や反射光を集めたような、金属的な輝きを放ちはじめる。それは、丁寧に紡いだ" 時間 "の断片ともいえるだろう。
細切れた" 時間 "の中で浮遊感を探りながら、見ること、描くことを往復し絵画体験に没入するのだ。
 
人は他人を鏡に自身を確認している。
私は、作品という鏡を通して「自分自身」を確認しようとしているのかもしれない。



辻元 美穂/MihoTsujimoto
 
1994年生まれ
2019年 大阪教育大学大学院教育学研究科 芸術文化専攻修了
 
2018年 明るい方へダイブする/MU東心斎橋画廊
2017年 CASO気鋭展/海岸通りギャラリー・CASO
 
私は抽象表現によって絵を描いています。この表現を選んでいるのは、何らかの「意味」から解放された、存在そのものを画面上に見たいと思っているからです。具体的な意味を持たない色や線たちが、引き付けまた反発し合う、その力の作用を描くことで、何ものでもない純粋な存在を感じられる作品ができると信じています。
 
そのような画面と向き合う制作の中で、色や線の重なりが何かを語りかけてくるような、あるいは私自身が画面の中に何かを探しているような感覚をおぼえることがあります。そして、その何かに触れられたような気がしたら、それを短い言葉にします。その言葉は、時に記憶を揺さぶるような、懐かしさの伴う詩であり、作品に繋がる道のようなものです。
 
私は制作において、「意味のないこと」を求めながら、同時に「意味のあること」を探しています。そのような「ない」と「ある」の明滅の中に私の作品は成っていると思っています。



薬師川 千晴/ChiharuYakushigawa
 
1989年生まれ
2013年 京都精華大学 大学院 芸術研究科博士課程 芸術専攻修了
 
2020年 解体とアプローチ 田中真吾×薬師川千晴展/八日市文化芸術会館
2018年 散光/サーキュレーション/滋賀県立近代美術館企画展
2018年 シガアートスポットプロジェクトvol.1選抜/長浜黒壁スクエア内
 
紙に一つの点を描いてみる。そしてその隣にもう一つの点を描く。
すると二つの点には色の濃さや大きさの差異≠ェ生まれ、同時に2つの点の間にある空間は、お互いへの距離≠ニなる。
私はこの、点と点、個と個、あちらとこちらから成る一対≠フ関係性に魅力を感じている。
 
【 右手と左手の絵画 】
右手と左手に異なる色の絵具をつけ、画面上で手を交差させる。
古典技法の練り込みテンペラを用いて作った荒い粒子の絵具は、二色の交わる境界線が三色目に変化する事なく、お互いの粒子の中に入り込み、個と個が共存する中で混ざり合う。
 
【 絵具の引力 】
一つの絵具の塊を二つに分ける。
そうして出来た作品は、人が祈る時に合わせる手にどこか似ている。
そもそも、人はなぜ祈る際、手を合わせるのだろう。
思うに、手を合わせる事により、人は何も持てなくなる℃魔ェ重要なのではないだろうか。
それはつまり、何かを抱える手段である手を天へ差し出し、物質世界とは離れた位置から祈り≠ニいう非物質的な行為へと移行する、ある種の儀式のようなものなのだろう。
 
【 好一対の絵 #トリスタンとイゾルデ 】
一枚の面に色を置き、ストロークを描く。そしてその裏面にまた色を置き、ストロークを描く。
一枚の板の表と裏、その両面と交互に対峙しながら描く行為を繰り返すうちに表≠ニ裏≠ニいう概念はなくなり、表裏一体≠サの言葉の通り表裏一組の一対の絵≠ェ完成する。
見えない一方に影響を受けながらも、決して交わる事のないこの一対の絵を、私は、互いに求め合いながらも決して結ばれる事のない物語の名を借り、トリスタンとイゾルデ≠ニ名付ける事にした。